心をそっと休ませる場所

親が重い、人間関係が作りにくい、いじめ、モラハラ、様々な心の荷物を少しでも降ろせたら。

アダルトチルドレン

私は本を読むことが好きです。本の世界は現実とは全く違う世界が広がっていて、

その世界を空想することが大好きだからです。旅行なども現実から離れられるものでもあるけれど、一番身近なものはやっぱり本だと思います。

 

逃げたい、ここから逃げたい、甘えたい、みんなが幸せにみえる、自分は一人だ、誰も自分をわかってくれない、誰も自分を救ってはくれない、

 

ないないづくしに埋もれそうな時がありました。そのとき救ってくれたのが、本でした。一番自分に合っていて、しっくりきた本があります。それらの本は心療内科医の海原純子先生が書かれた本でした。

 

まず、初めて海原先生の本を手に取った時の自分は何もかもに疲れすぎていました。

毒親にも、変えられない現実にも、うまくいかない人間関係も、自分というものがわからない時期でした。そのとき、ギュッと詰まった文章を初めから最後まで熟読する元気はありません。

 

そこで「今日を「いい気持ち」で生きるレッスン」海原純子

という本を手に取りました。

 

1ページずつ先生が一言語りかけくれるように、短い文章で元気のカケラをわけてくれます。

 

「何かあっても

 そのことだけで頭をいっぱいにしないこと

 ほんの一歩ひくだけで

 心にゆとりが生まれます」

 

「今日を「いい気持ち」で生きるレッスン」引用

 

 

心のゆとりは全くありませんでした。でもいつも自分の苦を嘆くばかりであった私を変えてくれた本でした。

 

まだまだポジティブという言葉は強すぎたけれど、苦から抜け出て守るという違う道を見つけられたように思いました。

 

小学生時代が過ぎ、思春期の中学生時代が来ました。そのときにあまりにつらい日々にリストカットが止まらない時期がありました。何におびえ、苦しみ、逃げていきたいと思っていたのでしょうか。ですが、その時期から救ってもらえたのは本の存在でした。

 

これから少しずつ私の好きな本をご紹介していきたいと思います。

 

今回の題名になっている「アダルトチルドレン」も毒親を持っていた人(現在は大人になっている人たち)につく言葉です。大人になっても傷ついた子ども時代子どもの心を自身の中に持っているということです。この言葉もぴったりだと認めます。

そして、そこから気持ちを昇華させていきたいですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

毒親の虐待は連鎖する?!しないように自分を救いましょう

毒親という言葉の認知度が上がってきたように思います。虐待のニュースからみる残虐さが毒親という言葉にも結び付きます。

 

先日のニュースにあった、虐待によって命を落とした小さな女の子の勉強ノートには世の中が涙したことだと思います。その小さな女の子の命をどのようにしたら救えたのか行政は考えてくれているのでしょうか。

 

でも、虐待というほどでなくても生きにくい、いつもなんだかつらい、親とどうしてもうまくいかない、どうしてだか理由はわかないが人付き合いが苦手。いろいろと細かい問題を毒親からの影響で発症してしまう人はたくさんいると思います。

 

私はどうしてそこから抜け出せたのか。(いや、抜け出せたといっていいのか)

結論を言ってしまうと母が亡くなったからです。

 

今はもう想い出の中の人です。

しかし傷は消えません。想い出を引っ張り出すとつらい気持ちや怒りの気持ちがわきあがり素直に想い出を出せません。

 

でもその傷に小さな絆創膏をはり、軟膏を塗り、温め、目立たない古傷へと変えていけたらいいなと思います。

 

私は不倫と嘘に対して強烈な嫌悪感を感じてしまいます。ですが、それは子どものままの私。10歳だった自分は子どもの自分を守る、もう一人大人の自分を作ることにしました。

そう、「母はかわいそうな人なんだ」

「料理も好きではないのに主婦にならなければならなかったんだ」

「朝起きれないのは低血圧でしかたないんだ」

「母の生い立ちも貧乏でつらいものだったから、今お金を手に入れて自由を味わってしまっている子どものような人なんだ」

と大人の目線で子どもの自分に言い聞かせました。

そして、大人の自分が言います。

強くなろう。この人に頼らなくてもなんでも自分でできるように

 

毒親が毎朝起きなくて朝食がなくても、不倫に走り、晩御飯がなくても、嘘をつけと強要されても、世間体よくいろと言われても、自分を守れるのは自分だけなんだと言い聞かせました。その言葉と対の言葉は子どもは親を選べない。です。

 

私はなるべくお金の面以外では親に頼ることをやめました。本当に朝も自分の目覚まし時計でおき、お米も自分で炊き、習い事への一人で電車に乗り、洗濯ものを畳み、上靴をあらい、給食エプロンに自分でアイロンをかけ(父のワイシャツにもアイロンをかけさせられていましたが)どんどんどんどん自分で自分を守る大人を大きくしていったのです。

 

今、つらい人がまだ未成年だったなら、誰か信用できる大人に助けてもらってほしいと思います。きっといると思うから。だって、誰も信用できないって本当に寂しいことだと思うから。自分をすべて受け入れてくれる人はそうはいません。でも理解しようとしてくれる人はいると思うから。そして、その頼られた大人が信頼できる立派な大人でありますように。

 

今日も最後まで読んでいただきありがとうございます。

今日のあなたにも小さな幸せがありますように。

まだまだやらかす毒親

今日も暖かな春の陽気ですね。花粉症が酷い私はつらい季節ですが、暖かで太陽の日差しが強くなるこの時期は心も温かくなります。

 

虐待のニュース、虐待の末引き取られた児童相談所児童養護施設のニュースが連日続きますね。なんで、どうして、と心を痛めている人もいるでしょう。

でも、私もその一人だよ。見つけて、と小さき声を上げている人もいるかもしれません。

 

私は今子どもを持つ母です。そのどちらも感じてしまうのでそれらのニュースを見るのはつらいですが、どうしても見てしまいます。どうして、そうなってしまったのか。何が原因だったのか。どうすればよかったのか。とりわけ未来へ繋がるどうすればよかったのか、、、が気になります。

 

 

死にたい。と子どもに思わせていた毒親。本人たちは子どもがそのように思っているなんてことは感じません。子どもの心なんて無関心なんです。酷い言葉でいえば、自分の付属品のように思っている場合もあるでしょう。親が、こうと言えば、子も、こうと思わなければならない。。。のように。

 

私が小学3年生の頃になると小学校の教室が3階になり、ここから飛び降りたら死ねるかな。などと考えるようになりました。(実際は低くて無理でしょう)

その頃から母は不倫を楽しむようになり、子どもに嘘を強要するようになりました。

「1度、鳴らして切った電話のみ出なさい。それはお母さんだから」

「お父さんが電話してきたら、お母さんは頭が痛くて寝ているというんだよ」

駅まで自転車で行くから後ろに乗せられ、その自転車は誰かに見られないようにその自転車を私が乗って帰るのです。

 

何度となく、父の電話に嘘を言いました。でも、ばれないか、気づかれないか、ちゃんと言えているのか、不安で不安でたまりません。学校でも自分が嘘をついているこの行為を誰かに知られていないか不安で不安でたまりません。それらの精神不安定さが死にたいへとつなげていきました。

 

ただ、母が家にいないということは自分を見張る人間がいないということです。勉強もピアノもしなくていい。テレビをずっと見続けてもいい。漫画をずっと読み続けてもいい。夜ご飯は千円でコンビニで好きなものを買っていい。

そんな楽しさを少し見いだせていたように思います。

 

大人になり、母となった私はどんなに体調が悪くても朝ごはん、昼ごはん、夜ご飯はきっちり作ります。だって、毒親と同じラインに乗りたくないから。

そして、嘘に対してものすごく拒否感を感じてしまう大人なので、子どもにも嘘をつくということ、嘘をつかないということ、嘘というものがどのように人間関係や信頼関係を壊すかということをコンコンと説いてしまいます。

 

そしてまた、自分の行動が行き過ぎていないか本を読みながら、自分を外から眺めながら、反省するのです。

 

結局アダルトチルドレンのままですね。

 

でも、今は笑顔で安らげる自分の場所を見つけています。このような傷やいたみを持っている人たちが、同じように、小さな幸せを感じられる場所を見つけられますように。

今日も読んでいただきありがとうございました。

 

毒親ってすごい言葉

 

毒親ってすごい言葉ですね。今まで親を大切にしろ。孝行したいときには親はなし、などなど親をいかに大切にすべきかを教えられてきたと思います。

 

しかしこの何年間でこの構図が変わってきました。

子どもを大切に育てられない親もいるってこと。親からの虐待で傷を受けたり、命を落としてしまう子どもがいるということ。

 

前回は「教育ママ」のことを書きましたが、しつけや教育と称して逸脱した行為を行えば今は毒親になります。この現代に教育ママという言葉の方が死語ではないでしょうか。

 

私の親も毒親でした。その言葉が出たとき、同じ思いを抱えている人がいるんだとほっとしたり、嬉しかったり、安心したり、様々な感情が芽生えました。

 

そしてそれらに関連した本もたくさん発売されるようになり、フリーアナウンサー小島慶子さんなどは自らの口で毒親のことを語ってくれました。

そのことによって、心の奥底に仕舞い込んでいた想いを出してきて、口に出し、嘆いてもいいだと思えるようになったのです。それまでは口に出すことすらできなかったです。だって、親不孝だとか、親のこと悪く言うなよとか、言われちゃうんだから。。。

 

私の母はとにかく世間体が一番という人でした。

周りからどのように思われているのか。

勉強も一番、ピアノも上手、絵も上手、作文も上手、お宅のお子さんはなんでもできてすごいねって子どもを育てたかったんです。

自分の子どもの人間性なんて全くの無視です。

勉強が苦手だった私は小学生の頃から母がつきっきりで勉強を見てくれました。

しかし、私は何度も間違えます。すると、だんだん母の顔つきが変わり鬼のように怒り狂います。萎縮する私は緊張のあまりますます思考が停止します。母はスリッパや50センチ物差しや大きな木のすりこぎで私をたたいてきました。何度も何度も。

叩けば勉強ができるようになるのでしょうか。

しかし、あの怒りを見れば恐怖によって勉強をさせることはできます。

テレビを見て怠けていれば、またあの恐怖に叩き落されるのですから。

 

硬いものでたたかれたらあざもできます。しかし、恐怖心を煽るためにたたいているので、あざは薄く2、3日で消えるものでした。

でもまたそれは次の日も、次の日も続くのです。

 

もしかしたら、現代では虐待に認定されるのかもしれません。でも昔は教育ママで通せたのです。

 

小さい頃のことは今でも鮮明に覚えています。

今日も、あの頃の自分によくがんばったね。もう痛い思いはしない日々を過ごしてるんだよ。今日も太陽は暖かく草木を照らし、月は柔らかく夜を照らしていたよ。と語りかけます。

 

眠る前に温かなお湯にすっと心を浸すように深呼吸をします。

あの頃の私、ありがとう。よくがんばったね。えらかったよ。

そう感じて眠りにつきます。

 

 

今日も最後まで読んでいただきありがとうございます。

つらく、暗い文章が多くなりがちですが、同じ境遇の人だからこそ舐めあえる傷もあると思います。そして最後にはいつも自分をほめて、癒してあげれるような文章にしていきたいです。

初めまして。ブログ初心者です。

 

初めまして。ブログ初心者です。自分の心を整理しつつ、同じような悩みを共有する人たちとそっと心の重荷を軽くすることができたらいいなと思いブログを始めました。

 

文章もまだまだ不慣れですが、読んでいただけたら幸いです。

 

私は昭和生まれで小学生の時に昭和から平成へと変わっていきました。両親は公務員で自分たちにすごくプライドを持っている人たちでした。バブル期には一般企業が軒並み給料が上がりボーナスが上がり、浮かれあがっている様子をテレビで見ていた人たちでしたが、あっという間に不景気になり公務員=安定ということをより強固に思った人たちでした。母は私にはしっかりと勉強をして(できればなんでも一番に)、勉強をしっかりしさえすれば幸せになれると説く人でした。

 

勉強が少し苦手だった私は小学生になり、教育ママへと変身した母に振り回されるようになったのです。

勉強を教えるというのは、相手がなぜわからないのかを噛み砕き相手にわかるところまで自分が近づくという作業が必要だと思います。ですが、母は

「なんでこんなもんもわからないんだ」と怒ります。

 

それでもわからないことがわからない私は何度もミスをしてしまいます。

母は怒れば恐怖にてより一生懸命勉強すると思ったのでしょう。そこから

地獄が始まります。

 

私の時代は「教育ママ」「ヒステリー」という言葉がありました。母は厳しいものだという表現だったのでしょうか。ですが、その言葉に当てはまらないくらい度を越したものはもはや虐待だったと今は認識しています。

 

読んで下さってくれている方も幼少期には同じような一面があったかもしれません。

そして同じように「怒ったから勉強がよくできるようになったことはない」と思っていることでしょう。

 

私は今でも自分の中に取り残されているあの頃の子どもの自分に

「よくがんばったね」といいます。

 

このような経験を積んできてしまった人によくあることだそうです。

自分の中にまだ子どもが残っていることをアダルトチルドレンと言います。

私は誰かにうまく救ってもらうことができない不器用な人間だったためにそのような関連の本をたくさん読んできました。なので、それらの本も一緒にご紹介できればと思っています。

 

私の文章を読んで、塞いでいた記憶を呼び起こされて、つらい思いをまた再現してしまう人もいると思います。ですが、いつも最後にそっと自分を労わる言葉を伝えていきたいと思います。

 

つたない文章を読んで下さりありがとうございます。

そして、いつもいつでも頑張っている、頑張った、自分に「えらいね」「よくがんばったね」と言ってあげましょう。